本音はヒトを癒し、救う の巻
「〇〇の巻」は、最近ピノ子のブームです。
先日、母に初めて子守りをお願いしたんですよ。ピノ子4歳にして、初めて。
今まで子守りの選択肢の中に、母や家族に頼るというのは無かったんですよねー。夫婦でどうにかやる、もしくはお金を払ってプロに頼む。くらいで。
二度の産後も母には頼らず、近くの親戚に頼ったり、プロに頼んだりしてました。
家族に甘えるということが私にとっては大きな大きな壁でした。
小さい時からずーっと、「いい子」で居ないといけないと思ってたからねぇ。
それがふと、頼んでみようかなって思って勇気出してみたら、二つ返事で引き受けてくれて、子供達と居てたら風邪治ったわ〜と笑顔で帰ったのが私とても嬉しかったのです。そして助かった。
ピノ子が産まれてすぐのころ、母に対する強い強い怒りの感情が湧いてきてどうにもならなくなってね。
母と対峙するたびに、小さなピノ子に自分を重ねて、「なんで?なんでこんなにかわいい(存在な)のに、あんなに私は抑圧されないといけなかったの?」っていう疑問が湧いてくるわけですよ。
そりゃあもう苦しいからねー、正直関わりたくなかった。
参考記事⬇︎
それがね、コボちゃんが産まれてしばらくして、ふとしたきっかけで母と話をする機会ができたんですよ。
私が母を煩わせないいい子で居ることがどれだけ生きにくかったか。母に見てもらえなくて寂しかった。もっと愛情かけて欲しかった。大事にして欲しかった。と、その時伝えることができたわけです。
この時、母を責める気持ちや謝罪を求める気持ちが(ほぼ)無かったことに驚きました。あんなに恨んでたのに!自分が苦しいのは全部母のせいやって思ってたのに。
それはまぁ、私にとっては大きな大きな一歩やったわけでね。
生きてるうちにもっと 本心で話がしたいと思ったから、それからもちょくちょく、「思ってること」や、「思ってたこと」を言うようにしていました。
その度に母は、「私が未熟な母やったから」とか、「私が至らなかったから、つらい思いさせてごめんね」とかいうわけです。
やけどなんかさぁ、それ聞くたびに釈然としない思いが心に広がりました。
でもその理由が何なのかは、しばらく分からずやったのですが。
ある日私、熱を出してね。その時にふと幼き頃に母にされた仕打ちを思い出して怒りがフツフツと湧いて出たわけです。
んでね、結局母といろいろ話した気になってたけど、母が幼き頃の私のことをどう思ってたのか聞いてない!ってことに気がつきました。もう居ても立っても居られなくて、勢い任せに母に電話しました。
でさ、母さんは私のことどう思ってたの?母さんは私のこと煩わしかったの?そこんとこどうなの?
・・・
かなり何度もラリーしてようやく母は話してくれました。
周りはもう子育てがひと段落してる中で(うちは、年の離れた姉と兄がいるので)、自分だけまた1から子育てが始まると思ったら取り残されるような気もしたし、煩わしさがあった。
そして、そもそも子育てというものに自信もなかったから、またできるのか不安だった。
あと、パパ(私の父)が私に甘いのを見て、私に嫉妬する気持ちがあった事も。子供より、私の事を大事にしてよって気持ちがあったのかもなぁ と。
それが聞けて私、なんだか力が抜けました。なーんやっ。そうやったんかー!ってね。めっちゃ気持ち理解できたもん。
目の前の霧が晴れるような気すらして、その母の本音は、幼き頃からの心の傷を癒しました。一見、酷にも思える告白だったけど、私の心は救われた。
ずーーーっとずーーーっと抱いてた、「なんで?」の答え合わせができたから。(しかも全問正解やったやん 笑)
幼いながらに頑張って我慢していい子してた私を肯定できる気がしました。
んでさ、あれだけ「許す」とか「許せない」とかにこだわってたのに、結局は『ほな、ま、ええか。』やもんなぁ。もっとドラマティックなもんやと思ってたから、拍子抜けやったなぁ。
探してたもんはこんなsimpleなもんだったんだ〜(by ミスチル)
母に本音を聞きたかったのもあるけど、母に弱くて醜くて我が儘でクソみたいな、生身の自分の弱さを認めて欲しかったのもある。 「私が未熟な母やったから」「私が至らなかったから」とかね、そんなカッコつけた言葉で逃げんとってよ!ってさ。
・・・いや、違うのかも。
ほんとはね、実は私こそが 母に「完璧であって欲しい」って思いがあったのですよ。それは私の母に関してだけやなくてさ、聖母観っちゅうの?
「母たるもの子供を無条件に愛するものだ!」っていう概念が私の中に強く強くあったようです、どうやら。
(しかしさぁ、どこで「完璧」なんて観念が生まれるもんかねぇ。子供の思い込みというものは論理性無さすぎてクラクラするわ。でも強くて純粋で、論理なんてものでは太刀打ちできないのよ。)
だからこそ、
生身の人間としての母の本音は、母となった自分を許すことにもつながりました。
私は、聖母のようにはできない自分をどこか責めていたから。「私だって人間だー」という生易しい言葉で自分の「完璧にできない」という罪悪感を誤魔化してたから。
あの日私は、「完璧な母像」というものから独立できた(かも知れない)。
そして母を完璧でない1人の人間としてようやく解放してあげた。それはつまり私が母から独立したんやと思う。
後日 母に話しました。あの時、本音言ってくれて私は救われたんやで、聞けて良かった。言うてくれてありがとう と。なんやこうやって、話をしてそれを受けてどう思ったかのフィードバックまでできる様になったことはまた私も成長したなぁと思う。自分がどう思ったのかを言える様になったのやから。
結局ね、「本音」がこれだけ私を救ってくれるとは思わなかったよ。それでも愛してた〜的な甘い言葉をどこかで期待してた節あるのに。本音を言えた母も、やるなって思った。
やから改めて思ふ。
私は私の本音をもっともっと大事にしよう。それこそが自分を癒して救う事になるんや。
偽善や偽悪の甘くて苦い言葉で誤魔化さずに、弱くて醜くて我が儘でクソみたいな本音を聴きたい。散々、絶望して、そして受け容れたい。
それさえできてれば、子供達にも素直になれると思うから。
〈以下余談〉
こないだピノ子の運動会でした。
初めての運動会のお弁当作りは、想像の5倍ぐらいハードワークでしたよ。
私おせち作りが趣味のひとつでね、毎年おせち作ってるから余裕やと思ってたわ。
あれだけのことができれば、世のどんなオフィスワークもこなせる気がしたよ。
料理のスキルだけやない、段取りスキル、クリエイティブスキル、コミュニケーションスキル、とにかくマルチなスキルが求められる。
しかも絶対的な時間のリミットが決まってるからね〜。
お母さんってすげーよー!!ビバだよ!
肝っ玉オカン道は続く。
私の幸せは、状況に依存しなくてもいい
タイトルがさ、バブルのころのJ-popみたいやわ。長いよね。
愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない 的なね。
あの娘僕がロングシュート決めたらどんな顔するだろう 的なね。
別れましょう私から 消えましょうあなたから 的なね。
さておき。
実は久しぶりに映画のはしごしたんですわ!いつぶりなんやろか?!
朝一に思いついて、夫に相談して 快諾してもらって、もぅうれしすぎてバス停まで走っても息切れしなかったですよ。
そして、めっちゃ笑顔で走ったから、バス停着いたときには上唇が歯茎にくっついて下りてこなかったなぁ。
1本目は、くっそ気持ち悪い映画でね。
心のイヤーなとこぐちゃぐちゃに触られるような気持ち悪さ。それはそれで思うことあったからまた書くとして。
2本目がものすごくいい映画でした。
「はじまりはヒップホップ」
(邦題ちょっとダサいよね。それだけが気がかりやったけどね)
※個人的感想(ネタバレっていうのかしら)入るので、これから映画観たい人は以下読むの控えてね。
ニュージーランドの離島に住む平均83歳のおじいちゃんおばあちゃんがヒップホップの世界大会でラスベガスに行く話。ドキュメンタリーなんです。
あたし、映画のあらすじや批評を書く気なんてさらさらないんだ!
興味があったら観てくれよ my men!(産まれてはじめてヒップホップ用語使ってみました)
この映画の中で、とある90代のおばあちゃんが言ってました。
「数年前に夫を亡くして悲しみに暮れていたときにね、これからどう生きたいのか自分に問うたの。誰も会いに来てくれないって家で拗ねて泣いて暮らす人生はまっぴらごめん、だから自分から外に出て人と関わることにした。特に若い人たちと交流を持ちたかった。」って。
その生きざまがもぅね、私の胸をガンガン打ちました。
いつでも、いつからでも、どんな時でも、自分がどんな風に生きたいのか問うて、そう生きていくことはできるんだよな、それってすごくすごくかっこいい生き方やなって。
私ねこの夏に、腑に落ちた感覚があって。
オセロの角を取ったよう、そこからいろんな気付きがパタパタとやって来てます。毎日自分と過ごすことがすごく興味深いです♡
オセロの角を取ったきっかけはやっぱりこの出来事でした。↓
ピノ子の肌荒れ。もう、最初私の心は揺れに揺れたけれど。
「そっか」とピノ子の症状を受け容れた時にね、私の心には平穏が訪れ、幸せを感じられたんですよ。
だけど、私の心が変わってもピノ子の肌荒れは全く何も変わらなかった。
そして、それこそが私に大きな気付きを生みました。
ピノ子の肌が荒れてても私が幸せで居ることはできるんやん!ってね。私は私の幸せを、状況に依存しなくていいんだってことが分かったんですよね。
未だにピノ子の肌は荒れてて、気にはなるし痒そうなピノ子見てたら胸がキューっとなるけど。でも、だから私が不幸って訳じゃない。
優しい夫が居て、可愛い子供が居て、衣食住の心配は特になく、ピノ子の肌がツルツル。「だから幸せ」じゃない。
これは、事の大小じゃなくてね。
幸せって何かじゃなくて、在り方なんや。そして、自分が幸せで在ることに理由は要らないんやなぁ。どんな時でも、感情がどれだけ揺れていても、幸せな自分で在ることを選ぶことができる。
って事がねぇ、頭では分かってたけど、その片鱗を体験できて、あーこういうことか!と思ったわけで。これは私にとってはとても大きい出来事でした。
で、映画の話に戻ります。
平均83歳のヒップホップダンスユニットのみなさま。
もちろんそれだけ長く生きてはるから、それぞれに老い、病気、家族、金銭の事情を抱えてるんやけどね。言うならば、生老病死に関わるわけで。
だけどみんなとても笑顔。幸せやのよね。
すごい情熱でヒップホップに取り組んでてね、心底感動する。
私さ、何かかけがえのない好きなことを持っててそれに取り組んでる人にずっと憧れてました。情熱大陸に出てくるような人ね。「何か」を持ってるっていいなぁ〜って。
でも映画観て思ったんよね。
あ、この人ら別にヒップホップが好きなわけじゃない。それはたまたまヒップホップやっただけでね。
言うならば、「挑戦する生き方」が好きなんやなぁって。他にも「交流する生き方」、「分かち合う生き方」、「あきらめない生き方」etc...
やっぱりwhatやなくてhowなのよね。
自分の求める生き方は、いくつになっても、どんな悲しく辛い状況でも、選ぶことができるんやなぁ。それこそが『自由である』ということなんやろ。
そいやおばあちゃん達みんなとーってもオシャレで明るくてチャーミングやったなぁ♡夫を愛してて、愛されてて、仲間で助け合って、若い人に頼って。
んでさ、ジョークが効いてる。ユーモアが素晴らしいの。
確かフランクルも「夜と霧」でそんなこと書いてたな。(でも、苦しいから改めては読まないけど)
なんせね、この映画の中には、私の目指す「肝っ玉オカン」がいーっぱい居てました。
改めて思いました。
どんな状況が起こった時にも、いろんな感情が湧いて揺れに揺れても、最後には「私の肝っ玉オカンを選ぶ」生き方をしていたい。
もっともっと幸せで、もっともっと自由で在るぞー!うぉー!
肝っ玉オカン道は続く。
私の中の大事な私(過去記事)
今いろいろ書きたいことがあるねんけど、進まへんわー。頭の中では文章できてるけど、手が進まない現象。これって何なの?と心に聞いたら、「待っとりー」って言われましたわ。へへへ。
と思ってたら突然手がすすみだした!ピノ子の寝かしつけは夫に任せてパソコンに向かってる←イマココ
とりあえず書きたいことあるねんけど、そのためにもこの過去記事を上げるぜぇ~(今更すぎちゃん)
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肝っ玉オカン道は続く。
時間はたし算
未だ、人生の季節の変わり目感漂ってますなー。
春になる時、三寒四温とか言うように、
今の私も行ったり来たりしながら、徐々に人生の季節の変わり目を移行しております。
「退屈」癖があるんですよ、私。
やることあるとかないとか関係なくて、ふと気がつくと「退屈」に浸ってしまいます。夫と居ても、子供と居ても、気の置けない友達と居ても、家事をしててもテレビを観てても。何をしてるか、は関係なく、退屈な感覚で過ごしてるという癖。
こないだふと「退屈」感がある時、心がまたええこと言うてくれたのでメモメモ。
(以下、ピンク字は心の声です)
なんか、また退屈やわ。これ、何かな?
今この時間を、いつか好きなことができる時間が来るまでの暇つぶし、と思ってるよね?
それはね、時間を引き算で考えてるからだよ。
え?
時間ってね、たし算なの。
「今」を積み上げて行くものなの。
今、やりたいことやってる?今見てるそのFacebookは本当に今やりたい事?
引き算で時間をつぶしていると、いつまでもゴールだと思ってるやりたい事ができる時間は来ないんだよ。
(そこで思い当たる節ありすぎな私)
あ!て事は、この子達が寝たあとにようやく私の時間が来る。だからそれまで時間潰しをしてるってこと?
そう。そして、その時が来ても結局やりたいことやってないでしょ?その時もやっぱり時間潰ししてるでしょ?
確かに。
観たいわけでもないテレビをダラダラ観たり、食べたいわけでもないお菓子を食べたり、見たいわけでもない携帯いじりしてる。んで、寝る時間が来て、あーあってなるんよなぁ。
だから「今」やりたいことのたし算の結果の“その時”なんだよね。
今退屈だと、その時も退屈になる。どこかで時間の過ごし方を選ばないと、退屈の線路に乗ったままだよ。
ほー。なるほどー。
と言うわけで、ダラダラ触ってたiPhoneを置いて、気になってた晩御飯作りを始めました。
あー、ご機嫌だった〜。
子供と過ごしてると、何かと中断しないといけなかったり、マイペースにできなかったりする
という思考が私の中にあり、
だから、だったら、やりたいことやらない。っていう選択をしがちです。私。
やりたいことやらないのやもん、そら退屈ですやん。
その時その時で、今私が幸せで在るためにどうしたい?と選択していく。
同じiPhoneいじりでも、選択した上でなら変わるよなぁ。
そして、それが私にとってやりたいことの選択であるなら、大概子供は邪魔してこない。この不思議。
今このブログも、iPhoneいじりながら書いてるけど、「よし書くぞ!」と決めた途端、さっきまでぐずぐずしてたコボちゃんはおもちゃに夢中。ダラダラとテレビを観てたピノ子は、静かにお絵かきを始めました。
時間はたし算。
今の積み重ね。
とーっても分かりやすかったですわ。
心よ!ありがとう♡
肝っ玉オカン道は続く。
コボちゃんの胎話記①
うちのコボちゃんも1歳を過ぎまして、ウロウロ歩いて、ぼちぼち単語も増えてます。
もうさぁ。コボちゃん、いつ見ても可愛い♡愛しさが止まらないわ〜
2人目の余裕というものもあるようですが、私の中では胎話があったからこその信頼感があります。なんか「大丈夫」やの。
赤ちゃんやから伝わらへんとか、赤ちゃんやから分からへんっていうのがないのは、とてもやりやすいもんです。
そして、産まれてからも胎話(産まれてるから胎話ではないのか?)してくれるコボちゃん。
迷った時はコボちゃんに聴きます。
忘れんうちに、残しとこうと思いつつだいぶ経ってるけど、とりあえず前に書いてたブログの記事を今回は引っ張ってきますわ。
というわけで、その①です。
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【2015年07月25日 の記事】
私は胎話のやり方をせのおまさこさんにちゃんと学んだわけではないけど、
コボちゃんと話せるかな?って話かけてみたら、しっかり話してくれたんです。
それは、自分の心の声を聴くのとすごく似てる。
きっと今は、コボちゃんの意識であって、私の潜在意識でもある状態なんやろう。まさに一心同体。
そしてこれってきっと誰もができてることなんやろ。そいや娘の時もできたんやったんよね。
しかし、だいたい私が寝入りの時やったりするから、翌日起きたら「えっと何やったっけ?」って事が多いんですよ。
そんな胎話ライフももうしばらく。
ちと信じられないような話かも知らんけど、私の忘備録も含めでブログに残しますね。(文字ばっかで長いよ)
以前お風呂ゆっくり入りながら、ちゃんと望む形で産めるのか不安やって話してたら、
「ママの望むように産まれてあげるから大丈夫。でもさ、ママがそんなに不安だらけやとボクも迷うやん。ママが決めないと」って。
コボちゃん、どうやら男の子です。
それは始めからなんとなく分かってたんですけど。
だってコボちゃん話す時、一人称「ボク」なんやもん。先日エコーでちらっとね、付いてるのが見えました。
でも私、男のコ育てる自信がイマイチ無くて。なんか大変っていうイメージばっかりやったんです。女の子ならもうだいたい分かってるしええなとか思ってたんですよね。
ほな、
「ママは新しいことが不安やねんなぁ。でもな、ママはいろんな経験をしていろんな感情を味わいたくて産まれてるねんで。覚えてないかも知れへんけど」って。
ある時、逆子になったんちゃうか騒動がありまして。お腹触ってたら、肋骨の下に丸い硬い物があたる。しかも、ジンジンしてた恥骨が急に軽くなって。あれ?これまさか?!と思いまして。2日ほど不安な日々を過ごしましたが、診てもらったら正しい位置に居てくれてね。逆子ちゃいました。
でも、それってずーっとコボちゃんが言うてたんですよ。
「大丈夫やって、もー、ホンマ心配症やなぁ」って。
そんなメッセージくれてるのに、あまりに私が心配してるのできっと痺れ切らしたんでしょうね。その診てもらう日の朝、ピノ子がおもむろに、
「ママちゃん?コボちゃんは元気よ、大丈夫よ」と言ってきてくれまして。もちろんピノ子には逆子の心配とか話して無かってんけど。
後から考えたらきっと、娘にコボちゃんが伝えたんじゃないかと。2人、よく話してる風です。
その帰り、心配ばっかりでごめんなって言うたら、
「まぁそれでええよー、かわいいよ」と言ってくれたコボちゃん(笑)。プレイボーイ気取り。
私せっかくコボちゃんと話ができてるのに、なかなか安心ができてないのよな。
でもその騒動以来、コボちゃんともっと向き合って信じたいと思うようになりました。
そしたら、たまにコッテリしたこと話してくれるのです。
「ママあのね、ボクが産まれたらママはきっとすごくすごく楽しくなるよ。人生から自由になるよ。そのためにボクは産まれていくんやで」と。
「え?でもコボちゃんはやりたい事があるから男のコに産まれるって言うてたやん?」
「ママが人生を楽しめるようになるのが先。そしたらボクはボクのやりたい事をやるんや」
「ママはお姉ちゃんが産まれて、母親になれた幸せを全身で感じたやろ?でな、ボクがママに自分の人生の楽しさを教えに行くねん。大丈夫やからな。それはお姉ちゃんと決めてたんやで」
「ずっと前からママのとこに産まれるの決めてたんやで。でもママなかなか心が決まらへんから、ずーっと待ってたんやで。ある時、ママとお姉ちゃんとパパが3人で楽しそうに過ごしてるのを見て、今やと思ってん」
「ずーっとムカムカよだれが出て気持ち悪いのは、ママ頭使いすぎ。考えすぎやねん。何が正しいかにこだわり過ぎてるから。もっと気持ちいいこと選んでええねん」
娘の赤ちゃん返りに疲れてた時には、
「お姉ちゃんにはもう充分愛してもらってるよ」と。
そいや、娘とはまた全然キャラが違うんですよね。娘はお腹に居る時から行動的なタイプでした。というのは、娘を妊娠してから私の行動や嗜好が否応なしにガラーッと変わったから。いや、変えさせられたというのか。
それまで何も考えずに食べてた、そこそこジャンクな物は一切受け付けなくなり、
甘いものも胸焼けがヒドくてダメに。
代わりに、いわゆる粗食やハーブなどをめっちゃ好んで食べるようになって。食のことあんまり勉強してないし、よー分からんかったけど、とにかく身体が受け付けないからそうなったという感じで。
会う人もガラーッと変わりました。それまで付き合ってた人達との関わりがなぜかプツンとなくなって、新しい出会いで世界がパァーッと広がった感じがあったんですよね。
逆に、コボちゃんは基本的に「なんでもいいんやで~」と、大らかなタイプ。
今回は食のこともある程度勉強したりして、娘の妊娠以来の身体に良い食生活をしようと思っているのに、逆に粗食がめっちゃ嫌で食べられなかったりするのよ。やたらと甘い物を欲したり、ジャンクな物、外食をしたくなったり、それらをすごく美味しく感じたり。
食べ物を選ぶ時はできるだけコボちゃんに聞くようにしてます。夜のアイスとか特に笑。頭であかんって思った物をコボちゃんオッケー出たら食べる。
逆にコボちゃんオッケー出てないのに頭で食べたら、食後の胸やけがヒドイってこと多々あり。基本的には何でもええよって事が多いんですけどね。
名前も、娘は授かった時から女の子な感じがしたし、もうこの名前しか考えられへんっていう感じで、今の名前で呼んでたけど、コボちゃんはなかなか決まりませんわ笑
名前どうする?って聞いても、「任せるわ」とか言うし。
ピノ子は私の身体のデトックスと世界を広げること。
コボちゃんは頭ガチガチな私を解すこと。
それを妊婦中に取り組んでくれているのではないのかと思ったんですよね。おかげで今回は感情のデトックスも山盛りですわ。
そいや、先日産まれる日も教えてくれたんですよね。その後また聞いたら変わってたけどね。
大人の都合で、できれば産後翌日以降数日は、娘が幼稚園に行ってくれてるタイミングの方がええなぁと思ってお願いしてみたら、
「ボクもお姉ちゃんと一緒に居りたいねんで。お姉ちゃん、たまにガマンしてるよ。見てあげて」と。
その直後、娘が流行性結膜炎からえらい大熱出してダウンしました。
ちょっと無理させてたのかもなぁと思ったわけです。
そんなこんなで、他にもいろいろ話してくれてるコボちゃん。
こないだ助産師さんに言われたんです。
産まれてくる赤ちゃんが実は1番大変な思いをしてくるんよ。そんな思いをしてまで、伝えたいことがあり、産まれたい想いがあるんやから、こっちはドンと構えて迎えてあげようねって。
そうや、そうやなぁ。
コボちゃんの愛を存分に感じながら、その時を安心して迎えてあげたいなと思ってます。
ふんがー!
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肝っ玉オカン道は続く。
それは人生の季節の変わり目だから
いやぁ、週末から体調崩し気味の我が家。台風やら、低気圧やら、身体にビシバシステム(懐かし!)ですなぁ。
なんかねー日曜の夜から猛烈に身体がダルい。ダルい。ダルいの。
手足が重くって頭がボーッとして。
昨日はそのピークでね、日がな一日ゴロゴロしてました。
ダルいって、漢字やと「怠い」って書くのねー。怠けてるのか、、、
なんか強めやな。
あんまりダルいから、心に聴いてみました。(以下、ピンク字は心の声です。)
心よ!最近なんか調子悪いよね、身体がとにかくダルい。頭も回らないし。どうしたらいい?
寝なさい。
はい〜。
(しばし寝た。)
心よ!でも、寝ても寝ても眠いよー。
寝てないよね。頭で考えようとしてる。
なんでこんなにダルくて、頭が回らないのか。ブログもまた同じサイクルの繰り返しかって思ってる。
(実際、ブログ始めたばっかりの割に、ここんところ急激に書く気が無くなって焦ってた。なんで焦り?)
答えを欲しがってる。
はい、まさに。
今は、人生の過渡期です。季節の変わり目って言ったら分かりやすい?
そういう時期は次の季節に馴染めるように調整する期間。季節毎に衣替えをするように、モードを変えているから。
最近ちょっと「これだ!」感あったんやけど、それって成長のステップなんかな?
いや、成長って本当は違う。季節が変わるだけ。良いも悪いもない。何事も変わってゆく。成長にこだわらないで。
(成長というと階段を上がるイメージが湧く私)
階段を上がるとか降りるとか、上とか下とかで状況をジャッジしようとしてるよ。どこにいても同じだから。本質はあなただから。変わりゆく季節を楽しみ一体となれるよ。
えー。でも、もっともっと自由で幸せで、在りたくて。そのために成長したくて。
実は「成長」って思考はあなたのものじゃないんよね〜。
え?これって支配者の思考だったの?
うーん、支配者とかも私はどうでもいいの。あのね。「答え」に囚われないで欲しい。「なぜ」を突き詰めないで。
ただ、今はそういう状態であるということ。それだけ。
季節が変わるのは誰にもコントロールできないように、ただ移りゆくものだから。あなたもただ移りゆく存在だから。
ちーん。
というわけで、寝ました。
あんまり寝れんかったけど。
やっぱりさぁどうしても、成長してるって思いたいし、答えを分かりたい欲求があるよねー。
その裏には、コントロールできてる有能感が欲しいのかもなぁ。
ってなわけで、
しばらく季節の変わり目しときまっさ〜。
と思って、今朝ミクたんのブログ散歩してたら、まさにぴぴぴったしの記事発見!
成長なんかしなくていい!成長とは、ただの「変化」に「成長」ってレッテルを貼っているだけ! - ゆるんでいく日々
そ、そ、そ、その存在!
(私はチャネリングとかは割りかしニュートラルに受け容れる〜)
そうですよね。
成長してるって思いたいのは結局未来に不安があるのかも知れない。今の不足感があるから、未来の確約に安心したいのよね〜。成長してたら安心やもんねー。(でも、よく考えたら、何が安心なんかよく分からん)
私達には「今」があって、いや「今」しかないのや。
というわけで、やっぱり気がすむまで寝るぞー!
寝た先に何があるのか知らんけど、とりあえず「怠い」から寝るぞー!
この記事を見せてくれた私の心。ホンマにいつもそばに居てくれてるやなぁと実感しました。
ありがとう〜♡
肝っ玉オカン道は続く。
お片づけとお掃除の目的
この夏、ピノ子のプルプルのお肌が荒れました。
ここでも書いたの↓
最初はとびひがひどくなったものだったのですが、一旦治ってもまだ治まらず。
アレルギー検査したところ、ダニのアレルギーがちょっと出たんですよね。
その時お医者にね、
「君の家はよっぽど汚いんだな。これは親の責任だ!」と言われました。
すっごい悔しくて奥歯を噛みしめながら帰ってきました。
しかもその日は私の誕生日。人生最悪の誕生日だ…と絶望してました。
それから。
拭き掃除、掃き掃除、掃除機、
掃除、掃除、掃除の日々が始まりました。
私の心の中では、
あのクソ医者め! と、お医者に対する恨みをぶつけるかのように、手の皮がむけるほど雑巾がけをしました。(これは大袈裟)
そして、この拭き掃除は今後ピノ子と同居している以上永遠に続くのか、と途方に暮れていました。
まず、部屋が汚いって言われたことが悔しすぎたわけです。
そして、部屋が汚いからアレルギーになったって言うのがとにかく納得できなかった。
だって私は、
だって私は!
だって私は!!
あんなに汚い家でも、こんなに肌ツルツルに育ったやんかー!
そう。これ。
私の母は、お片付けお掃除に苦手意識のある人でした。それでね、母はね、普段からあまり片付けや掃除はしないんやけど、人が来るときだけは部屋の掃除をしっかりするの。すごくイラつきながら。私はそれがとても嫌でした。
母はね、きっと汚くて散らかってる部屋にコンプレックスがあったのでしょう。そしてそれは人から批判されると思いこんでいたのでしょう。少なくとも私にはそう見えました。
そして 私にもしっかりと植えつきました。
「我が家は人様にお見せできるような家やない」と。
話を戻して。
お医者に指摘されてから、猛烈な被害者意識にまみれながら掃除をする日々。
手伝おうとするピノ子を押しのけ、掃除機で遊ぶコボちゃんを押しのけ、夏休みの毎朝のことですから、だんだん朝になるのが嫌になってきました。
ある日、同じように拭き掃除をする中でふと、この掃除はいつになったら終わるの?いつまで掃除したらOKなの?と、思いました。
そこでようやく冷静に部屋を見渡してみました。
ほな、なんと!
うちの家、めっちゃキレイやったわけです。
隅々まで拭き掃除されてるし、
物も少なくて家具もスッキリ。
私、自分の家のこと汚いと思ってた・・・
そして、人から見たときに批判されないかどうかが基準になってました。
目からうろこポロポロ。
お医者に言われた言葉は、まさに自分が自分に言ってる言葉だったのよね。それをお医者の口を使って出てきただけ。要は図星やったから、あんなに悔しかったのだ。
まぁさ、私の家は汚くて批判されるものやって思い込んでるんやから、そうなるよね〜。願い叶ってますやん。
片づけはするけど、掃除はするけど、そもそものスタートが強烈にマイナス。だからいつまで経ってもOK出せない。
だって、「人様にお見せできる家じゃない」ってさ、そもそも評価を他者に委ねてるんやもん。人様のゴールはいつまで経っても分からない。っーか、人様って誰だよ!そら、OK出せんで当然よな。
私のうちは、私が心地よく住むための場所。だから、「私にとって」心地のいい場所であるために、片づけや掃除をする。
そんな、片付けとお掃除の目的を、産まれて初めて確認したわけです。
「当たり前〜」の事がどれだけ、いつの間にか思い込んだ事に縛られて見えなくなってるか。。。
それがよく分かった出来事でした。
行動の「目的」はしっかり確認した方がいいね。それが日常の当たり前にやってることであればある程。
というわけで、それ以来、鬼のように掃除に追われるのや〜めた!
心地いい程度に掃除してます。いわゆる適度ってやつ。
んで分かったのは、それでもやっぱり私、スッキリしてる部屋が好きみたいだわ。物が少なくて、ホコリも食べカスも落ちてない方が好き。
初公開、我が家のリビング。
あー、心地いい♡サイコー!
とは言いつつ、他者の評価を基準に掃除をしてきた私としては、公開するのはちょっとドキドキしてる 笑
そして、部屋をピカピカに掃除した時には、人を呼ばなくてはいけないのではないか?自分だけのためにこんなにピカピカにしても意味がないのでは?というよく分からない想いに駆られます。
何それ?おかしないー?と笑っとく。
・・・
と、まで書いておいて続きあり。
ただやる。の話。
まとまったら書きます!
肝っ玉オカン道は続く。