肝っ玉オカン道

私が私の肝っ玉オカンになって私を育てていく記録

ガス台の使い方から風呂敷を広げてるで

こんにちは。

 

新しいお家に来て、あっという間。もうひと月半くらい経ってます。 

カーテンはまだ整っておりません。とりあえず事足りてるので、好みのカーテンとの出会い待ち♡(これ何回書くのか?)

部屋を使ってみるうちに、収納のやり方を変えたくなって来たので、新たに家具が必要になって来ました。

そしたら、先に用意した家具が早速要らなくなってる!買ったとこなのにぃ〜と効率悪いことをしてしまった事に胸苦しくなりましたが。「ま、それはしゃあないか」の範囲なのですけどね。

もっともっと使いやすく、そして快適に過ごせるようになりますように。

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kimottamamama.hatenablog.com

 ↑ここに書いた、ガス台のことを書こうと思ってたんだわ!(ガス台の使い方が前の家と違うから、無意識に使えるようになるまでには、めっちゃエネルギー消耗するわ的な事を書いていたんです)

 

それがある日ですね。

ガス口の並びと、スイッチの並びが同じ!ということに気がつきまして。それからは劇的に進みました。

今ではもう、すっかり使えるようになりましたよ(だいたい3〜4週間くらいで間違えずに使えるようになってたyo!) 

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んでね、どういうプロセスで使えるようになっていくのかを、そこはかとなく観察してたんです。そしたら、下の4つのプロセスを経ることが分かりましたよ。

 

①火をつけ間違うことすら意識してない期

②今まで通り使うと間違うことには気がついている、だから根性で間違わないようにする期

③(ガス口とスイッチの並びが同じという)ルールを発見する!

④間違って使うが、ルールを思い出して、やり直す期

そして、無意識にできるようになる〜ルルル🎶

 

「ガス台の使い方」なんて、くだらないことではありますが、無意識でやってきたことを意識化して、また無意識にできるようになるまでのプロセスって、心のこととか身体の使い方とかにも共通するのではないのか?と思いながら観察してたので、とても面白い時間でした。

 

で、上の4つのプロセスの中で1番苦しかったのは、②のプロセスなんですよ。

①のプロセスを経て、「もう間違えないぞ!」とか気張ってしまってるんです。

だから、火をつける時に「今まで通りやると間違うんだぞー!考えろー考えろー、考えて変えて行くんだぞー」という感じで、力みながらガス台と向き合ってました。それがもぅ、根性論的なムードなんですよ。でもその時は、何かを変えたい時はこうやって集中して向き合う、頭で一生懸命考えて、行動を変える必要があるなのかもなぁと思ってました。

 

でも、ルールに気がついてしまってから、圧倒的に気楽になりました。

間違っても、あ!違う違う。ガス口とスイッチの並びが同じだったんだ〜♡とすぐ原点に戻れる。

 

ルールに気がつくと、暗闇に街灯がたった感じになるんですよ。何も見えない暗闇を恐る恐る闇雲に進まなくて良くなる。

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これ、なんでも応用できるよねぇ。

 

kimottamamama.hatenablog.com

 

↑これで言うなら、

①なんとなく世界は怖いと思いながら生きる期

②その怖さは「世界は私をジャッジしている」という思い込みがあることを知りどうにかしたいと思う期

③世界をジャッジしてるのは私だったと気がつく→ジャッジをやめてしまうと決める

④「私の周りの人はステキな人」ということにして生きてみる期

そして、無意識に世界に心を開いて生きられるようになる〜ルルル♪

 

おぉ!ガス台の使い方と同じやん!

心のルールに気がついた瞬間めっちゃ緩みますねぇ。急に何も怖くなくなる。

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「気づき」ってどうやってやってくるのかなぁ?それって自分でコントロールできるものなのやろうか?

 

と悶々と考えてる時ふと、この詩を思い出しました。

この詩は、私が敬愛する心理カウンセラーさんから、心理学の講座の中で教わったものです。詩を書いたのは、いつかのどこかの精神学者だったと思います。(あやふや)

 

私は通りを歩く 歩道に深い穴がある 私は落っこちる

私はどうしたらいいのか分からない
どうしようもない

これは私のせいではない
出方が分かるまで、
永遠の時間がかかる

 

私は同じ通りを歩く 歩道には深い穴がある 私はそれを見ないふりして
また落っこちる
また同じ場所にいるのが信じられない 

でもこれは私のせいではない
私の間違いではない
やはり出るのに長い時間がかかる

 

私は同じ通りを歩く 歩道に深い穴がある
それがあるのが見える
それでもわたしは落っこちる

それは私の「くせ」になっている
私の目は開いている 自分がどこにいるのかが分かる
これは私のしたことだ
私は即座に抜け出す

 

私は同じ通りを歩く 歩道には深い穴がある
私はその深い穴を避けて 新しい道を通る

清々しい通りを感じながら
周囲がよく見える、街が見える、人が見える、自分が見える

そして、新しい世界を感じ取りながら歩いていく

 

この詩を改めて読んで。

気づきがやって来るためには、「 これは私のしたことだ」が要なんじゃないかなぁって思いました。

穴に落ちる不幸を「何か」のせいにするしかない無力だった私が、穴に落ちたことも私のしたことだと認めて、自力で穴を抜け出すとき。これは、被害者意識で生きてきた「私」が、自分の人生を自分の手の内に取り戻す瞬間。(シビれるぅ〜)

被害者意識で生きてる時には、気づきってこないのかもなぁ。

 

あと、新しい世界を感じ取りながら爽快に歩く「私」には、何度も落とし穴に落ちたことが新しい世界へのスパイスになってるなぁ。

やから、落ちることも人生にはまた良しなんだと許せる力が大事なんや。

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んで、残ったパクチーの茎を刻んでフォーに入れた。

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ナンプラーパクチーも最高やなぁ。夏が来たなぁ♡ 

 

肝っ玉オカン道は続く。