肝っ玉オカン道

私が私の肝っ玉オカンになって私を育てていく記録

②私を引き止める手

こちらの続き。

kimottamamama.hatenablog.com

 

私には、人と深い対話ができたり、自分の思ってることが言えたり、現実世界で認められたり、好きな人から好かれたり、チャンスがやって来たりなどの、なんせ「嬉しい〜🎶」と舞い上がりたいような時に、自分の胸をガシッと引き止められる感覚があって。

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その手はまるで、「浮かれるな!」「調子に乗るな!」「期待をするな!」と言わんばかりなんですよ。

そして、その感覚に引きずり込まれて、ディープな自己反省(いや、自責)の時間を延々と過ごし、次はもっと控えめに過ごそうと決心するというパターンがありました。

 

裏にはどうやら、「自由になってはいけない。自由に表現してはいけない。」がありそうだなぁとは思ってたけど。

 

そこで、カウンセリングの時に私を引き止める「その手」についてフォーカシングしてもらいました。(カウンセラーさんが、「その手」に語りかけ対話しながら、私がその象徴をどう認知してるかを明らかにしていく療法です。)

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なんと「その手」は、おじいちゃんの手でした。

2歳の頃から私の胸の辺りで私を引き止めていたその手は、「道に飛び出さないように」という、私を心配して引き止めたものやったんです。(私はてっきり、別の人から抑圧された経験の中で植えつけた感覚だと思ってたんです。)

まさか、あの大好きな大好きなおじいちゃんだったとは。

 

おじいちゃんはよく、幼い私の世話をしてくれていたそうです。写真には、私とおじいちゃんのツーショットがたくさん残されてます。

私はおじいちゃんっ子で、おじいちゃんはいつも大きな手で私の頭を撫でてくれました。

背が高くて、年を取っても格好よくって、幼稚園によくお迎えに来てくれて、手を繋いで帰りました。

照れ屋で、ジョークが好きで、いつも慌てて出かけて行きました。そういう時「おじいちゃんどこ行くの?」と聞くと、「ニューヨーク行ってくる」と言うのがおじいちゃんの定番でね。

 

私は、幼稚園や土曜の小学校終わりによくおじいちゃんと一緒に過ごし、と言ってもおじいちゃんの観てるテレビはつまらなくて、私は私で1人シルバニアで遊んだり、工作をしたり。

たまにおじいちゃんに漢字を教わったり、ふとおじいちゃんの戦争体験の話を聞いたり、おじいちゃんが好きな宗次郎のオカリナのCDを「かけてくれー」と言われ、それを聴きながら退屈だなぁと思って過ごしてました。

それでもおじいちゃんはいつも私の居場所で、大好きだった。

 

おじいちゃんは、道で心臓発作で倒れて病院に担ぎ込まれ、それから数日で亡くなりました。私はその頃小学生で、管に繋がれたおじいちゃんを見せるのはショッキングだろうという両親の計らいで、病院に行くことはできませんでした。

帰ってきたおじいちゃんはもう冷たくて、私は何が何やら分からなくて、泣くこともできなくて。いとこが泣いているのを冷めた目で見ていました。

 

それから15年以上経った、結婚を控えた頃。寝ても覚めてもおじいちゃんのことばかり思い出して泣けてくることがあってね。その時に初めて、私はおじいちゃんときちんとお別れをしたかったし、できてなかったんだと知りました。

私が大きくなってから聞かされたおじいちゃんの人間的ないろいろは、決して私がおじいちゃんを嫌いになる理由にはなりませんでした。それも含めておじいちゃんの存在を私は大好きやった。こんなにおじいちゃんを慕っていたなんて、気づいてなかったよ。

 

それから時折私の中に出てきてくれるおじいちゃんは、いつも私を優しく見守ってくれている存在として出てきてくれます。だから分かるんです。

「その手」は決して私を制限したり抑圧したりするものではない、私の身を案じて出した、愛の手やったんやって。幼い私が、勝手にそれを「制限」として印象付けてしまっただけ。

おじいちゃん、長い間勘違いしてしまってたよ。

 

だから「その手」には、いつでも私を褒めて頭を撫で、不安な時には腕をさすり、前に進みたい時には背中を押してくれる「手」に変えて、私の中に残ってもらいました。

これで、いつでもおじいちゃんが、自由になる私のそばにいて、応援してくれるだろうから。

 

つづく。