肝っ玉オカン道

私が私の肝っ玉オカンになって私を育てていく記録

オギャーを表現しつくす一生

朝起きたら、コボちゃんの左耳が赤く腫れててね。耳たぶの裏に、爪楊枝で刺したようなポコっと凹んだ穴があったんですよ。本人はさほど痛く無さそうやけど。虫刺されにしても、一体何の虫?凹んだままやし。

夜中に宇宙人がコボちゃんの左耳に何が秘密の物を埋め込んだ跡なんじゃないか?と、本気で心配しております。

 

 

さて。

とある日の爆笑問題カーボーイ(ラジオ)で太田光さんがとにかく熱くて。ご飯作りながら何度も何度も聴いてます。(ご飯作るときが私のオーディオタイム!)

   

仏陀が悟りを開いた時、いろんなものをそぎ落としてそぎ落とした先の「悟り」の境地だったわけですよね。

だけどその境地を弟子に(もしくは誰かに)伝えるためには、言葉や仏像やいろんなものを使わないと伝わらない。

しかしそれをすればするほど、散々削ぎ落としたものに、結局何かを付け足して行く行為となるから、どんどん真理から離れていってしまう というジレンマがあるよなって。

 

人間は一生かけて赤ん坊に戻るようなもんなんじゃないのだろうか。産まれた瞬間の「オギャー」こそが全て。そこに全部が含まれていて。

苦しみも悲しみも喜びも全て。生命というものが「オギャー」でね。

その「オギャー」を表現するために、人間は言葉を学んでいくわけで。けれど言葉を介す程に「オギャー」は表現しきれなくて。

つまりは、今自分が感じていること発していることは全て、「オギャー」を悲しみです、苦しみです、喜びです、と分割して表現してるわけで。それをたくさんたくさん表現して、「オギャー」に近づけていく。

生きるということは結局、とてつもなく遠回りだけども、最初に発した「オギャー」に戻っていくプロセスなんじゃないか。

 

というような話です。

ほかにいろいろめちゃくちゃええ話してた。思うことありすぎたので、それはまたまた、おいおい。

 

 

これって、私、コボちゃんが産まれたときにまさに感じていた事でした。

 

ふにゃふにゃのコボちゃん、ただ寝てるだけで強烈な存在感があって。あぁ、赤ちゃんって完全体で完璧やねんなぁと思ったわけです。

  

産まれたての赤ちゃんって「ただ居る」だけで完全。愛の全てを体現した存在。

 

ってことは、私も完全体の赤ちゃんやったわけで。

やのにね、傷ついてみたり、自己価値を落としてみたり、自己表現しなくなったり、「何か」が無いといけないと駆けずり回ってみたり。んでそれに気がついて、それを取り戻していく。

 

つまり元々「ある」のに、「ない」事にして。色々経験しながら、やっぱり「あった」って気がついていくわけでね。

 

人生ってなんでこんなに遠回りでややこしい事をするのだろうか。そもそもあるし、そもそも完全体やのになぁ。

と、産後の身体を休ませながら思ってたわけです。(やっぱりホルモンおかしなってる 笑)

 

 

で、太田光さんの話を聴きながら改めて思ったこと、それは。

 

母親は、生命を誕生させたこと、それだけでいいんやないか。

つまり「産んだこと」それが全て。それで母親の仕事は終わりなんじゃないかってことです。

 

「オギャー」のビックバンを表現するプロセスこそが人生の目的であるとするなら、どんな人生であってもヨシとしか思えない。

 

苦労させたくないとか、傷つけたくないとか、生きやすい人になって欲しいとか。だからいろんな経験をさせてあげようとか、本人の気持ちを優先しようとか、〇〇な育て方をしようとか、怒らないで居ようとかさ。

完全体のこの子達に、私が何をしてもしなくても、無意味であり、しかしそれこそが意味があって。

 

ならば、その子が表現したい「オギャー」を信じるしかない。どうなったとしても、どうにもならない訳やから。

 

という、禅問答みたいです。まさしく「空」論なわけです。

 

 

「オギャー」と産まれたこの子達の人生を信じる。

それは、「いい」人生になるだろうと信じるとかではなくて、どう生きても(たとえ辛い人生に見えたとしても)この子の選んだ「オギャー」の表現なんやと尊重する。

絶望的なまでに、子供達の「オギャー」に私が意図的に関与してコントロールすることは出来ないわけで。

 

とどのつまり、私ができることは私の「オギャー」に集中すること。
しっかり今を生きて感じて表現していくことしかない、というわけです。

 

「オギャー」、つまり全であり空を表現するための人生だとするなら、

この世に誰かが決めた「いい」とか「悪い」とかは本当に本当に無いのやな。

そこには絶望的なまでに(アゲイン!)「どうしたいか?」しかなくてさ。

 

それってある意味怖いよね。

今まで多少苦しくても、誰かが決めた「いい」とか「正しい」とかを指針に、「どうしたいか」よりも大事なこととして受け容れて生きてきたんやから。  

 

 

太田光さんの話聴いてまず思ったのは、

「ヤバい!私、ここ気づいてしまったら本当の本気の自由になってしまうよ・・・」ということ。

 

まだまだ、不自由なオギャーを表現したい様子ですなー。

 

ま、えっか。

   


爆笑問題カーボーイ2016年9月27日

 

 

肝っ玉オカン道は続く。