肝っ玉オカン道

私が私の肝っ玉オカンになって私を育てていく記録

いやいやいやいや、肝っ玉オカンを選ぶんやなかったんかいっ!

私の幸せは、状況に依存しなくてもいいという気づきこそが一番のギフトでした - 肝っ玉オカン道

どんな状況が起こった時にも、いろんな感情が湧いて揺れに揺れても、最後には「私の肝っ玉オカンを選ぶ」生き方をしていたい。

 

 やなかったんかいな、私?

いやはや、ただいま感情の混沌におります。

毎度はこう言うの抜けて腑に落ちてから書くわけですが、なんとなく書いておきたい気分。(書けるということは、混沌から少し距離が持ててるのかも知れないけど)

 

比較的冷静ではあるけれど、かなり強い感情が出てきた。そしてその感情の種となる原体験も判明したわけです。

 

しかし、このもつれの原因とか、どういう理屈でそうなったのかとか、イマイチ不明。冷静に分析する余裕はありません。

 

はぁ、幸せであろう、自由であろうとする私を引きずり下ろすのはいつも、「被害者意識」そして「罪悪感」。

この方々と円満にお付き合いできる日は来るのでしょうか。

 

 心のホメオスタシスめ!最近気づきの進み方が早かったからか、揺り戻しもキツイなぁ。

 

ねぇ?それでも幸せで在れるの?

ねぇ?それでも自由を選べるの?

と、悪魔に囁かれてる気分。

 

揺れて揺れても、いずれは希望を選ぶなんて、そもそも揺れてない時だから言えるんだよなぁ。あれだけ幸せを選ぶと宣言してた私は今では幻やないか。 

あの時は何が起こっても大丈夫な気すらしてたのに、夢から覚めるの早いなー。まさに、つかの間のパラダイスやったね。

 

その実、下手に揺らさないでほしいんだよー。多少退屈でも、多少不幸せでも、多少傷ついていても、慣れ親しんだ世界に居た方が楽なんじゃないのか?

 

分かった気になって、お恥ずかしいお祭り人間よ。アドレナリンよ、グッバイ

 

オギャーに戻るプロセスなら全部アリなんや的な、カッコええこと言うたけど、そんな大したオギャーいらんやん?

無音のオギャーでええからさ、何も起こらないで、何も反応しないで、適当でそこそこで、もうそれでいいやない?

オギャーを表現しつくす一生 - 肝っ玉オカン道

(しかしここでリンクを貼れるのは、やっぱり余裕があるのか。あるのかないのか分からんわい!)

 

子供達だってきっと分かってくれるよ、君たちのママは「所詮 そんなもん」やってさ。

 

 これが弱音なのか本音なのか。

本音やと言いたくなるほどに、MP(マジックポイント)点滅中ですわ。

 

ここから脱落するのって、簡単やろなぁ。「何しがみついてるの?こっちへおいでよ」と、耳元でとても甘い囁きが聴こえるわ。

 

ニヒルな自分と、ニヒルになりきれない自分がせめぎ合う。冷静と情熱の間。(懐かし)

もっと無邪気に絶望したいのに。まだまだカッコつけてる違和感があるわけで。

 

 

どれだけ心への考察を深めても、

現実的解決には結局、具体的な行動が必要なわけです。その具体的な行動をするには、やはり心の納得が必要で。

 

最近思うのは、許す事って簡単だよね。やけど、信じるって難しいのよね。他者に対してはもちろん、自分の事もそう。

許すのは一時やもんね。でも、信じるのは希望が無いとできない。

 

 

やっぱり一旦深く潜る必要もあるのねー。でもさ、そのモチベーションが湧かないよ。

 

前はこんな時どうしてたかな?

やっぱり映画観てたな。1人でどーーーっぷり映画館に入り浸りてぇ〜!

 

 

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ピノ子からのプレゼント。

海が近いからね、公園に貝殻が普通に落ちてる。