ひがんでた、愛しきわたし の続き
の続き。
これからも私はきっと、輪に入れなくてひがむだろうし、どんどん人と繋がって、やりたいことを形にして行く人をみて妬むんやろうなぁって思うんです。
だけど、それをどうしても悪いとは思えないんですよね。
ひがみ、妬み、そねむ私を認めて受け容れた時に初めて、私はどう在りたいかに目を向けられたんですよね。
私、人ともっと協調したいし、共感したいし、やっぱりその人のことが好きだって思った。憧れてた。
私が嫉妬してた、自分を表現してどんどん先行く様に思える人も、私がなりたかった姿。
私のカッコ悪さの先に、可愛くて愛しき私の本音があって。
嫉妬や僻みって、私の宝地図みたいなもんなんやなぁって思うんです。
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こんな閲覧者のさほどいない拙ブログでも、時に反響があったりします。Facebookでコメントもらったり、メールをもらったり、LINEで連絡が来たり。久々の友達がブログ見て思ったことを連絡くれたりした時には、繋がってる喜びに満ちます。
もともと共感してもらう目的で書いてるわけではないけど、結果的に共感してもらえるのは、とてもとても飛び上がる程に嬉しいんですよ。
それが最近、方々から「アドバイス」と呼ばれるもろもろが飛んでくることが急に増えてね。
それぞれは、きっと素晴らしく善意で、私への好意がベースにある事は理解してるから、その好意は嬉しいのだけどね。
だけど私、別にアドバイスと呼ばれるもろもろは、求めてないのよ。だからその行為には違和感を感じるんです。
ひとを救いたい時は、自分が救われたい時なんだろなぁって思うんです。
これは誰かを特定して言ってるわけではないんですけどね(言い訳がましっ笑)、自戒を込めて言ってます。
だから、私はひとを見て「救いたい」とか、それにに似た「役に立ちたい」という欲求が湧いた時ほど、自分の事に集中しようと思いました。
どうしようもなく、私には私しか救えないし、私のことは私しか救えない。
同時に、求めてないもろもろが飛んできた時に、「全然分かってない!」的な怒りに似た感情が湧いたり、正しく分かってもらいたいという気持ちが出てきたんですよね。
でも、それも不要だなと思いました、
私の事は、どうしようもなく私にしか分からないし、人に私を分かってもらいたい時は、私が私を分かりたい時。
分かってもらえたら嬉しいけど、分かってもらえないと悲しいときはあるけど、だけどそれだけ。「あー、悲しかったなぁ。」
「お願いやから、このクソ退屈な日常から誰か救って!」なんて気がしてたけど(参考記事 超絶頑張ってる私に① - 肝っ玉オカン道)
誰かに救って欲しいなんて実は微塵も思って無かった。
私のことは、どうしようもなく私が救ってやりたいし、
そもそも救うべき私なんて居なかったんですよ。
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今回思ったのは、刺激や出来事に感応してる、私の「感性」を信じてるんだなぁってこと。
平たく言えば、どうなっても私は私をどうにかするんだろうなと。
たとえ苦しくても、それを感じている私がいて。だから時にはとてつもなく逃避したり、とてつもなく鬱屈としたりもできる。そして、必要に応じて、他者に求めることもできる力が私にはある。
渦中にいるとそれどころではないけどね。
やっぱり私は「オギャー」を信じて生きていきたいんですよね。
(参加記事 オギャーを表現しつくす一生 - 肝っ玉オカン道)
んなわけで、嫉妬もいいやん、僻みもいいやん。救うべき私なんていないやん!てなわけです。
ピノ子の 遠足弁当。遠足の日は、久しぶりにウキウキで幼稚園行ったー。
肝っ玉オカン道は続く