肝っ玉オカン道

私が私の肝っ玉オカンになって私を育てていく記録

私って何をそんなに我慢してるのか

こんにちは。

 

先日、満月やったらしくて、曇り気味でしたが雲の隙間からピカピカの満月が見えて、美しさに魅了されました。
月を見る永遠にも感じるあの時間がだいぶ好きです。
独身時代は頻繁にしてた、夜の散歩もそろそろ復活したいなぁ

 

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こないだシリーズで書くと宣言したやつ「我慢が暴発してる」の続きです、

お待たせしました!(え?待ってないって??)

 

このごろ、ピノ子にやたらとガミガミしていた私。

こないだ暴発したきっかけは、お昼何食べるー?でした。

うどん食べたい私と、ラーメン食べたいピノ子。(というより、最近のピノ子はママが食べたい物には首を縦に振らないという天邪鬼が見え隠れしてます)

 

何やらかんやらごちゃごちゃ話した結果、

「じゃあ、ピノ子が我慢すればいいんだね?いつもママのしたい事ばっかりして、ピノ子はいーーっつも我慢ばっかり。ピノ子ばーーーっかり我慢してる〜」

と叫ぶピノ子に、ブチーーーン!となりまして。

 

いつもママが好きな事ばかりしてるやとぉー??こちとらいつもいつもどんだけ我慢してくさってると思っとるねん!!うぉー!がぉー!

 と。ま、そんな感じになりまして。

 

しばらく冷静になったあと。

年端もいかない大事な娘に怒鳴り散らす程、一体私は何を我慢してくさってるのだろうか。。。と思いました。

 

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私の中では、漫然とした閉塞感は確かにある。

子供と過ごす毎日は、それなりに充実はしてるよ。いつでもってわけではないけど、それはそんなもんやろ?

夫は、よく稼ぎよく家事や子育てをし、そして私を大事にしてくれる。

 

ねぇ、私は、私に一体何を我慢させてるの?

 

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ある日、街に1人で出る機会があって。

ウィンドーショッピングやらなんやらしながら、ふと目に入った黒のワイドパンツ。試着したらサイズもいいし形もステキ。

 

鏡に映る自分を見ながら、

「でも自転車乗れへんよなぁ」とか。

「どうせ公園行ったら砂で汚れるよなぁ」とか。

「でもこんなワイドやったら何かの時に走られへんよなぁ」とか。

「どうせ幼稚園の送り迎えしかない毎日やからなぁ」とか。

 

とか。とか。とか。

エンドレスに、この気に入ったパンツの「でも」と「どうせ」が頭を流れて来てるんですよね。

 

そっか。

この「でも」「どうせ」の頭の声に支配されて、好きな(着たい)服すら私に着せてあげられてないのかぁ。

 

そしたらね、私の日常は「どうせ」「でも」で溢れていましたわ。

 

どうせ幼稚園行くだけやから、軽めに化粧しよ。

どうせ公園行って汚れるだけやから、汚れても良くて走れるジーンズとボーダーのTシャツ着とこう。(実際自分のクローゼットにボーダーとジーンズだらけでゲンナリするで、しかし)

どうせ誰に会うでもなし、オシャレにしてもしゃあないか。

ちょっとええとこでゆっくりご飯食べたいけも、でも子供達連れては行かれへんし。

外食したいけど、でもお金かかるしやめとこ。

 

「どうせ私なんて」という悪魔の言葉が私を制限してる日常で。

 

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結局、頭の中の「でも」「どうせ」をかき分けて、黒のパンツを買って帰る道すがら。

 

あ、そいや鍼灸行くときこれ履こう。

次の伊泉先生の講座の時これ履こう。

というか、用事ないけど週末これ履いて街に出よう。

 

と思えたら、じわじわ泣くほど嬉しくなって来ました。

 

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私の日常が私を制限してるんじゃないよ。

私が私を「どうせ」な奴にしてしまってるんやなぁ。

 

でも、私は私の「どうせ」に耳を傾けて、その上で私が喜ぶことを選んで生きたい。

ちょっとずつ、ちょっとずつで大丈夫やから、私。

 

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「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くで見ると喜劇」

 

これチャップリンの名言。最近めちゃくちゃ沁みますわ。

私の我慢が暴発劇場は、この言葉に集約されてるなぁ〜。

 

すごくたくさんのいろんな要素に縛られて動けない、閉塞してる気になってるけど、離れて見たら「どこが?」って事なんやろ、多分。

 

笑っちまえるようになりたいなぁ〜。

 へへへ。

 

そして人生にはユーモアが必要なんだと強く想う。

 私の幸せは、状況に依存しなくてもいい - 肝っ玉オカン道

  

 

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まだまだ我慢のタネが続々。シリーズは続く。

 

 

そして、肝っ玉オカン道は続く。 

今日の分の「悲しい」を味わって生きていきたい

こんにちは。

もう2ヶ月以上前に観た映画のレビュー記事をアップせずに残してたので、

せっかくなので追記してあげようと思います。

鮮度大事と言ったものの、この記事読んでじわじわまた染みたりしてるからヨシ。

 

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久々にブログを書きたくなったのは、

とてもとてもとても美しくて切なくて苦しい、そして優しい、映画の名作を観たからです。

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー

 映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』公式サイト

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苦しくて、悲しくて、やるせなくて、申し訳なくて、堪らなくて、どうしようもなくて、そして心を閉ざした1人の男の話なんですけども。

 

これは、私の今後の人生に残る映画である と言えます。

最近、そんな映画との出会いが多くて幸せです。(以下ネタバレ的なこと書くかも。)

 

 

この映画を観て思い出したことがあります。それは、高校の時私を救ってくれた歌の歌詞です。

 

苦しくて 悲しくて 辛いことばかりなら

あきらめて構わない 大事なことはそんなんじゃない

岡村靖幸 「あの娘僕がロングシュート決めたらどんな顔するだろう」

 

自意識ばっかり過剰で、人の目が怖くて、居場所がなくて苦しかったあの日々。

諦めることも続けることもできなかったけど、寂しくて辛くて苦しい私にそっと寄り添ってただ居てくれる歌でした。

 

こんなことを言ってくれる大人がこの世界には居るんだってだけで、あの頃の私は救われた気がします。

 

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー

もそんな映画でした。

 

苦しくて悲しくて申し訳なくても、そんな自分でも、そっと寄り添ってくれる。

ひとは、必ずしも向き合えない傷があっていいんだよと。

 

苦しみ苦しみ尽くした結果、「向き合えない」と絞り出した言葉に、救いも赦しもないけど、じわじわとこみ上げる癒しがありました。

 

なんて優しい映画なんだろう。

 

向き合うことばかりが解決じゃないな。そして、受け容れることばかりが方法じゃない。

向き合えないことに、向き合えないと諦めることに、どれほどの勇気が必要なんだろう。

 

苦しくて 悲しくて 辛いことばかりなら
あきらめて構わない 大事なことはそんなんじゃない

私は子供たちに何かあった時、こう言ってあげられる親でありたいし、

そして私は私自身にもこうありたいと思うわけです。

 

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以下は追記です。

 

先日から、身体のメンテナンスに通い始めました。

受け容れる器のある鍼灸師さんで、知識も経験も豊富で、その方と話しているとふと心が開いていたりします。

きっとそれがきっかけやったんですけどね。

先日施術の後、自転車漕ぎながらふと口ずさんだのは、

 

川村結花「歌なんて」

信じられない悲しみに ある日突然に出会った

信じ続けてきたもの ひび割れて粉々に壊れた

歌なんて 歌なんて 何の役に立つものか

 

この夜を越えて行きなさい この川を渡って行きなさい

信じ続けてきたのはあぶくみたいな
まやかしみたいな そんな言葉 

歌なんて 歌なんて何の役に立つものか

歌なんて 歌なんてただの絵空事じゃないか

 

気がついたら鼻水垂らして嗚咽上げるほどに泣いてました。

道端で。(人が居なくて良かったー。サングラスしてて良かったー。)

 

そして父が亡くなった事、改めて想いました。

あぁ、もう二度と会えないんやなぁって。そしたらめちゃくちゃ悲しくて、寂しくて、また嗚咽上げて泣きました。

 

父が亡くなってから、何やらかんやらがいろいろあって怒涛の日々だったりして、

もしかしたら、しっかり悲しめてなかったのかもなぁと思いました。

 

 

川村結花さんが「歌なんて」についてこんな事書いてました。

歌なんて|川村結花オフィシャルブログ「日々のサビ」Powered by Ameba

 

以下抜粋

「悲しみは、乗り越えてゆくもの」だと思ってた。
わたしはずっとそう思ってた。それしか知らなかった。
乗り越えようとして、乗り越えて光に変えようとして
もがいてもがいてそれでもかなしみはいっこうに消えなくて
それでもあらがってあらがって越えようとして
5年前のある日「できない、無理だ」とー、降参したのです。
そしてわたしは、生まれて初めて知ったのです。
「抱きしめてゆくかなしみもある」ということを。
そのとき、わたしのすべての景色が変わりました。

 

 

もう亡くなったんやし、もう二度と会えないのは変わりない。

まぁ、子にとって親が亡くなるのって、ある意味順当な出来事やし。

それでもやっぱり悲しいし、悲しんでいいよ。

 

今日の分の「悲しい」をしっかり悲しむ毎日を生きていたい。

そう思いました。

 

 

いい映画、いい歌、大好き。

 

 

肝っ玉オカン道は続く 

罪悪感の幻肢痛

こんにちは。

 

それでね、予定通りコボちゃんを託児所に預けてきました。

そうです、用務員さんが欲しいんです - 肝っ玉オカン道

 

別れ際ちらっと泣いたけどね、10分後にはニコニコで、おもーっきり遊んでたみたいですわー♡

粘土捏ねたり、少し年上のお友達にくっついて言葉を真似してケラケラ笑ったりして。

お弁当も綺麗に食べてきてくれました。

 

家に帰ってもニコニコで、「たんしかったー!」と。

一回り男前になってましたよ。

 

 私はというと、

ついつい貴重な時間やから張り切って海辺のカフェでも行くか?と、

「せっかくやから」な、時間を過ごしそうになりましたが。

 

すぐに思い直し、

家でスタバのラテ飲みながら、大好きな「テラスハウス」を観る時間に変更。

(ちなみにスタバのラテは蛇足やったなー。飲みたかったわけではなく、「せっかくやから」感で選んだから、かもな)

 

テラスハウスを観た後は、布団でゴロゴロ。

とにかくゴロゴロ、ウトウトして過ごしました。

 

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結論。

なんかね、フツーーーーやった。

 

1人っきりの時間を過ごしたい!!!につきましては、

前日早く帰ってきた夫に晩御飯から寝かしつけを任せて、1人っきりで外出して外食して、海まで行ってぼーっとして。。。的な、ゴールデンタイム過ごしてたもんで、実は感動ってそんなになかったわ!

子供達と過ごしている時の、自由で居られないと思ってる時間が、自由時間のスパイスになってるよねぇ。

 

 

で、離れ際泣くコボちゃんに、やっぱりかわいそうかな?とか。ごめんねとか。

コボちゃん預けてテレビ見て布団でゴロゴロする罪悪感とか。

そうそう!これこそ私の過ごしたかった時間よ!といった充実感も。

 

どれも別に無かった。

 

なんか、あんまりにも当たり前の日常の一コマでした。

ちゃんちゃん。

 

で、思ってんけどさ。

まだ1歳のコボちゃんを人に預けて、自分はダラダラ過ごすなんで良くないことだ!

という、自分の思い込みの枠を超えた挑戦!的な、カンブリア宮殿的な そんなていでしたけど。

私にはその壁、とーっくに無かったんかも知れないなぁと思いまして。

 

例えるなら、幻肢痛みたいな。

もう無いのにあるものとして痛んでただけ。

とっくに無いハードルを越えるために足思いっきり上げたけど、するっ?あれ?的な。

 

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だってさ、ピノ子を今の幼稚園に預ける時に散々向き合った傷でしたよ。

 

当時コボちゃんを妊娠中。

3歳のピノ子の相手を毎日1人でするのも苦しくなってきてたし、産前産後どうするかという問題もあって。

3年保育の幼稚園ではなくて、その前1年多く預かってくれる幼稚園にが近くにあって。

 

でも、1年も早く預けていいものか。

ピノ子に寂しい思いをさせるんじゃないか。

仕事してるわけでもない、自分が家に居るのに子供を預けてもいいのか。

本当に安心して預けられる場所なのか。

 

その事を考えるととにかく涙が出てきて感情が揺さぶられて仕方なくて冷静に考えることもできない。

というか、頭ではいいことだろうって分かってるけど、心がまーったく着いてこない。

 

その時は、夫婦で何度も何度も話合って、自分を整理するために個人セッション受けたり、サイコロ振ったりもした。

 

自分の幼少期の寂しさや、自己価値の低さみたいなものに向き合って、

勇気を振り絞って振り絞ってピノ子を幼稚園に預けたんでした。

 

結果、預けてお互いにとって本当に良かったと思えている、大満足の選択やったわけで。

 

その時に私、ハードル越えてたやん。

 

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それでさ。

罪悪感多めのタチという自覚はあるのですが、

今回みたいに、実はもう無いのにあるものとしてる罪悪感が意外とあるのでは無いか?

 

もう無い罪悪感を撫でてることで、

動けなくして、幸せで在ることを選べてないって、あるのかもな。

 

鮮度、大事。

何かしらの反応がでた時に、それってホンマか?的な細やかに見ていこうと思ったわけです。

 

あと、大げさ病も注意 笑

気づきたがりすぎてやしないか?

 

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そんな訳で、

時折はコボちゃん預けてフツーーーーにゴロゴロする時間取ろうと思います〜!

 

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お弁当2つ作るの楽しかったなぁ。

空っぽのお弁当洗うのって幸せ。

 

 

肝っ玉オカン道は続く 

そうです、用務員さんが欲しいんです

こんにちは。

しばらく、「我慢が暴発してる」シリーズで書いてみたいと思います。

 

何を隠そう(隠れてないって)、それはここのところの私です。

「暴発」が一番ぴったりはまる、自分でもいつ爆発するのかわからない爆弾を抱えてる気分でした。(過去形でええかな?)

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先日作った万華鏡。想像以上に魅了されてます。

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先日の私の誕生日に於まして、夫と一悶着があったわけです。

誕生日やったんですよ。 - 肝っ玉オカン道 

 

夫は、私の誕生日にとある企画を考えてくれていたんですが、その企画が私には魅力を感じられず、気持ちが乗らない。

その様子を見た夫が、とてもがっかりして私に言いました。

「あなたはどうせ、僕に用務員さん(家政婦兼ベビーシッター)を求めてるんでしょ?」

 

それを言われてから私、ずっと苦しかったんですよね。

 

だって。

あまりにも図星過ぎたから。

 

そして狼狽しました。

これが「バレたら終わる」と思って。

 

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夫のこと大事に思ってるはずやけど、用務員さん(家政婦兼ベビーシッター)としての要素が強くなってるのは確か。

 

こんなんじゃぁあかん。

夫婦ってそんなんやないやろ?

「便利な人」やったら夫やなくてもええやん。あかん、あかん。

 

と、見て見ぬ振りして、いい子ぶって、夫のことがとても大事で大好き的な空気醸してたんですけど。

 

先日、ピノ子に私の我慢爆弾が暴発して、
もうこのままやったらあかんわと思い、降参して夫に伝えました。

 

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正直に言うと、

あなたが居ないと不便で仕方ないねん。
今は、「寂しい」より、「困る」が強い。
もっと家事やら育児を私の代わりにやってくれる時間が無いと、私は暴発してやばい。。
確かに、あなたに用務員さんを求めてるわ。

そして図星過ぎて参りました。

 

と伝えました。

 

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ここんところ夫は仕事や資格試験やら友人の結婚式やら、忙しくて不在気味。

 

そして1歳コボちゃんの成長著しく、5歳のピノ子の成長も著しく、1人で子供2人の世話をこなすことに限界きてました。
(とはいえ夫は遅く帰って来ても洗い物があれば洗い、洗濯機を回して干してくれる、なかなかの家事育児に参入してる、夫ではあるんですけど)

 

いやこれは、もしかしたら、ピノ子が産まれた5年前からずーっと積もり積もってる、ある感覚が暴発してるだけなのかも。
いやこれは、言うならば、今まで生きてきてずーっと親しんできたある感覚が暴発してるとも言えるか。

 

それは、
どうせ私が 我慢すればいいんでしょ?
私ばっかり我慢させられてる!
私の人生には自由が無い。

ってやつ。被害者意識にどーっぷり浸かってるやーつ。

 

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しかしながら、言ってしまったらとてつもなく楽になりました。

夫は優しく聴いてくれました。
傷つけてしまうかも知れないと思ったけど、夫はすんなりと受け容れてくれました。

 

その後は、早く帰ってきたら「用務員さんが居てくれて嬉しいわ〜♡」

という軽口が叩ける程に気安くなりました。

 

そしたら不思議なもんで、 

夫が居なくて子供の世話が大変、大変。私ばっかり、私ばっかり、私ばっかり、私ばっかりしてて、夫がしてくれてないってことで世界が溢れ返っていたのに。

 

話をした後は、

夫がしてくれてること、夫がしてくれようとしてること、その元にある私を大事に想ってくれてる気持ち、なんかが私の世界に現れ始めましたわ。

 

そしたら、私の中にある夫を大事に想う気持ちも見えてきた。いわば、世界が見違えているわけです。

 

そんな翌日は、夫は急遽予定が変更になって早く帰ってきてくれたりして。

おかげで私は、ここのところずーっと取れなかった念願の、1人でふらっとカフェ的な時間を過ごせたりしているわけです。

 

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それはさておき、どう足掻いても夫は昼間仕事があるわけで。

 ピノ子は幼稚園行くけど(ちなみに今は夏休み)、コボちゃんはずーっと一緒に過ごすわけで。

 

まだまだ手のかかるお年頃。

もちろん可愛くて仕方ないけど、私が私のペースで1日を過ごす事は難しい。

 

好きな時に起きて、好きな時に寝て、好きな時に好きな本を読み、好きな時に好きなテレビを観て、好きな時に料理をして、好きな時に食べて、好きな時にトイレに行くことすら、、、私には叶わないんじゃい!!!!

一日中「見てー」に付き合い、消防車見学に付き合い、ご飯食べさせ、こぼしたご飯を拾い、机と床を拭き、オムツを替え、汗かいたらシャワーを浴びせ、求められたら絵本を読み、あっという間に散らかる部屋にうんざりして、、、

 

とにかく早く寝て!早く寝て!早く寝ろぉ!と頭の中で呪いの言葉を唱えてる毎日。

大好きな可愛い可愛いコボちゃんやのに、イライラしてあたり散らしたり、離れてくれることばかり考えてる。

 

この目の前の現実はどうする?

うごー!!!

 

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と言うわけで、託児を利用してみることにしました。

これは私にはかなりハードルが高い挑戦でした。ある種の強い思い込みで罪悪感が滲み出てくる。

これについてはまた次か、次の次にでも書きます。

なんせ、シリーズにすると宣言したもので。

 

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託児に預ける件は、夫も賛成はしてくれましたが、

「で、1人っきりで何がしたいの?何かしたいことがあるの?」

と聞かれて思いました。

 

とにかく1人っきりで道を歩いて、1人っきりでぼーっと過ごす時間が欲しい。

自分のペースで買い物をしたり、自分のペースで1日を過ごしたい。

子供の世話から解放される時間が欲しい。その隙間ができないと、次に何がしたいなんて出てこない!もう、とにかくゆっくりしたいんやー!うおー!

(ま、次に何がしたいか出てるかどうかなんて副次的なものやし、どっちゃでもええんやろけど。)

 

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明日は、初めてコボちゃんを預けてきます。

用事なんてないけど預けるというのが私にはかなりチャレンジなんですよね。ピノ子の時にはできなかった挑戦。

 

昨晩コボちゃんを寝かしつけしながら、大丈夫かな?寂しい思いさせないかな?本当にこんなことしてもいいのかな?

と胸の中で思ってたら、

 

寝入りのコボちゃんが、

「そうだ。しんぱい ない ねぇ」

 

と、呟きました。何度も。

初めて聞く単語やったので、驚いてコボちゃんに、

「え?ママに言ってくれたん?」と聞くと、微笑んで寝ました。

 

コボちゃん、こういうことよくあるんですけども。

私が挑戦すること、信念のしがらみから自由になろうとすることをいつも応援してくれる、とても優しい我が子。

 

だから勇気出して預けて、勇気を出して思いっきり1人の時間を堪能しようと思います。

 

 

肝っ玉オカン道は続く

誕生日やったんですよ。

こんにちは〜!

どんだけも放ったらかしにしていたブログ。

自分の中で少しばかりの引っかかりがあり、自分の感じたことをここでオープンにする事を恐れていましたわ。

そしたら、何かしらの気づきも無いなー。

引きこもる事と、自分の内側に目を向ける事は似てるようで全く違うのなー。

 

その少しばかりの引っかかりにつきましては、もはや「どうでも良くなった」

何があったという訳でもないんやけど。

 

この「どうでも良くなった」が、実は一番ええこっちゃやないか?と最近思ってます。

嫌いな人が「どうでもいい人」になれば。嫌なことが「どうでもいいこと」になれば。

 

私は幸せでもいい。

私の価値は私が決める。誰かに価値を図ってもらう必要はない。。。のであーる。

と、ここで張り切って自分に宣言してみます。 

 

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誕生日でやんした!

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お砂のケーキ

  

「お誕生日おめでとう。」

というお祝いの言葉は、「生きていていいよ」と言われてるようで、とても嬉しくて、気恥ずかしいな。

 

昼間、自転車漕ぎながら友人と、

ご飯食べよかー、どっかで買ってうちで食べよかーと言ってたら、

ピノ子が「ママ、お誕生日おめでとう」と言ってくれたんですよ。

そしたら友人が、「えー!誕生日なの?!じゃあご馳走するからどっか食べに行こうよー!」

と言ってくれて、美味しい中華をご馳走になりました。

 

この急展開に底知れないワクワクがあって、あぁ、生きてて良かったなぁと思った次第。 

この優しくてフットワークが良い、良き友。とても大好き♡

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

だけど、今年の誕生日はひと月前から何やかんや一悶着、二悶着あったんですよねぇ。@夫。

 

要は、

「ねぇ?私のことほんまに大事に思ってるん?思ってるなら何でそうなるん?」のやーつです。

 

夫にも言い分があるんでしょう。

だけどとにかく伝わらねぇ〜。@お互い。(@の使い方テキトーか!) 

 

はぁぁぁぁぁぁぁ、身近な人とのコミュニケーションってさ。。。(なんやねん!)

 

 

ま、このブログは夫も読んでますが、書いとく。

解決したらまた書く!(まだ解決してない)

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

今年の誕生日は、初めてのことをしてみました。

それは、母親に「産んでくれてありがとう」を言ってみる、です。

 

電話したら、母親はすっかり私の誕生日ってことを忘れてましたわー。へへへ。

 

んで、言ってみました。

「産んでくれてありがとうねー」

 

ほな、言う直前はちょっとドキドキしたけど、何のこっちゃ無かった!!!

 

そ。そうなんですよ。ぜーんぜん、ナンノコッチャ無かったの。ふっつー。

これが逆に腰抜けたわ。

 

言うた途端何か思いが込み上げて来るとか。結局言えなかったとか。感動してお互い泣き合うとか。

そんなん全くなーい!

 

それがさ、良かった感じでした。

あぁ、なんや、私、もうすっかり自分の人生歩いてるんや、と思った。

今更な話やけど。

 

・・・・・・・・・・・・

 

ブログ書くの久しぶり過ぎて、全然筆が乗りません。

あの書いてる快調な感じが全く無いなー。

ま、えっか。

 

というわけで、また書きまーす!

 

 

大したこと無いコトにしない

父が亡くなって、まだ49日にもならない。

年末から、長い、ひたすら長い日々です。こんなに日が経つのを、長く感じることは無いかも。

インフルエンザ後の風邪もなかなか良くならないな。病みあがり長い。

 

色々あることが日々なのだ - 肝っ玉オカン道

 

夫に吐き出した言葉、

「つか、私は親死んだんや!いつもと違うんやから、こんな時はとにかく労って欲しい。いつも通りを求めないで欲しい」

 

っていうのが、自分のブログ読んでジワジワ沁みてきて。

私めちゃくちゃ労って欲しいんやなぁと改めて思ったわけです。

時たま、あー誰でもいいから、道行く人でもいいから無償に聞いてほしい!という感覚になるんですよ。

 「そっか、それは大変やったよね。辛いよね」って、優しい言葉をかけて欲しくなるんよな。

 

それは、全くと言っていい程、自分に労わりの言葉をかけてないからやなぁと思ったわけです。

 

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父が亡くなった自分を切り離してる感覚がありました。

そして本体の私は、全然何でもない、いつも通りの私で居る。

 

父が亡くなったこと?

え?そんな大変なことなんか?大したことないやろ、大げさに騒ぐなよー

と、自分に言ってる。

 

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こないだ娘が久しぶりに夜泣きしました。「足が痛い、足が痛い」と言って。

夫は心配してたんやけど、

その時私は、「大したこと無いくせに、大げさに泣いて」と思った。

 

それでね、あぁ、と思いました。

 

私、痛いとか辛いとか悲しいとか寂しいとかを、大したこと無いコトやと、抑え込むんやなぁ。

 

それらは自分の中で処理すべきこと。

感じて表現して訴えることは、とても「大げさなこと」、「我慢すべきこと」なんや。

 

 

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でもね。

 

私は私に優しい言葉をかけて無いのに、

周りの人たちがすごく優しい言葉をかけてくれるんですよね。

 

先日のブログで書いた友人達は、いつでも話を聴くよと言って、見守ってくれてる。

熱を出した時には、おかずを作って届けてくれ、娘の幼稚園のお迎えをして、買い物無いかー?と連絡くれて。

 

先日のブログを読んだ友人達が、温かいコメントや自分の経験を語って聞かせてくれる。

 

そして、父の生前の友人達は、父を偲んで、母に連絡をくれる。

母の友人達は、気落ちしないように母に会いに来てくれてる。

 

みんな、父が亡くなったことを、とても大変なこととして受け止めて、

私や私の家族を労ってくれるんですよね。

 

人って優しいなぁって、沁みてる。

 

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私もね、

私も、優しくなれるかな。

なりたいな。

 

そして私は私に、もっと優しくしてあげていいんよな。

 

大したことないって抑え込んで切り離した気持ちに、大事に寄り添ってあげたいんや。

どうしたらそれが出来るのかよく分からんねんけど。

 

でもきっと。

 

周りの人たちが私に優しくしてくれるように、

「いつでも話聴くよ、なんでも言っていいよ」って私を見守っていたらいいのかな。

 悲しいとか、寂しいとか、辛いとか、腹立つとか、悔しいとか、

出てきた気持ちをそのままウンウンって聴いてあげたらいいのかな。

 

大したことあるとか、ないとか、

それはどうでもいいことなんや。

 

周りの人たちが私に向けてくれてる温かい眼差し。

それと同じように、私は私をただ待って、ただ聴いて、ただ支える。

 

それなら周りに見本があるから、私にも出来そうな気がしてきたよ。

 

 

大丈夫。

大したこと無いコトにしなくてもいいよ、話したい時はいつでも話していいよ、私。

 

 

肝っ玉オカン道は続く

 

色々あることが日々なのだ

お久しぶりにしておりますです。

 

毎年年末に必ず観る番組「クリスマスの約束」で、宇多田ヒカル小田和正が「たしかなこと」を歌ってました。

 

結婚式でほぼ必ずといっていい程かかる曲だし、なんかミーハーな気がして今まであんまりしっかり聴いたことなかったんですけど。

今回初めてしっかり聴いたら、何といういい歌、詞なのでしょうか。涙を堪えることができませんでしたよ。 

 

いちばん大切なことは 特別なことではなく

ありふれた日々の中で 君を

今の気持ちのまゝで 見つめていること

 

特にこの歌詞がグググっときましてね。

 

ありふれた日々ってさ、いろいろあるんだよね。

何もないこと、昨日の延長の今日で今日の延長が明日 じゃなくてさ。

楽しかったり悲しかったり、笑ったり泣いたり、いろいろあることが日常でさ、それでいいんやん。

 

肩ひじ張らずに、そんな、いつも以上に何もない日常に努めなくていいよ。

いろいろあって、それが日常だよ。

 

 

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年末に、父が亡くなりました。

病気がちな父だったけど、それでも突然のことでした。

 

バタバタと帰り、通夜、葬儀を済まし、父の荷物の片付けや、母が早急に必要となる手続きを手伝ったり。

 

父が亡くなったという実感はないまま、時々「あぁ、居ないんやった」と確認する時間。

悲しさや寂しさ、生前の父に抱いてた想いが、炭酸の泡のように浮かんでは消え、まとまりがつかない。無性に寂しく悲しくなって声をあげて泣いた夜もあったけど、その実「何が何やらよく分からん」と言うのが本当のところでした。

 

圧倒的に眠りが浅く、ずっと風邪気味やし、食欲もわかないけれど、常に子供達の姿が横にあって、

3度のご飯に、オムツ替え、乳を与え、「ママなんでー?」に応え、ひらがなの練習を一緒にして、

こんな時でも、私にはいつもの日常を守らないといけない、子供たちと言う存在が居るのだから!

と、「いつも通りしないと」「寝ないと」「食べないと」と必死で努めていました。

 

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自宅に帰って、ピノ子の幼稚園も始まりいよいよ日常が戻って来てしばらく経った頃。

 

夫との些細なやり取りの中で、無性にこみ上げてきて、

「つか、私は親死んだんや!いつもと違うんやから、こんな時はとにかく労って欲しい。いつも通りを求めないで欲しい」と、吐き出しました。

 

しかし、夫は全然いつも通りを求めてない。いつも通りにしなくてはいけないと思ってるのは私自身やんか!と、言いながら明確に気がついてしまったわけで。

 

いつも以上にいつも通りであるように、慎重に毎日を送っていました。

いつもよりマメにおかずを作り、いつもよりマメに掃除をし、いつもよりマメに子供を公園に連れて行き、いつもより、いつもより。

そして平行して、いつもよりできてない自分を責めてました。

夫に御門違いの罪悪感を感じて、甘える事も上手くできず、なんだか妙な閉塞感の中、上記の言葉に至ったわけです。

 

言葉を夫に吐き出しながら、

 

いつも通りじゃ無くてもいいんや。人生で初めてで一度きりの経験やん。父親が死んだんやもん。

少し落ち着いて喪に服す時を過ごそう。

 

と思いました。

 

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翌日、ピノ子を幼稚園に迎えに行った帰り、友人にその話をしました。

 

いつもの日常を送ろうと努めてたけど、頭の中では父の死が24時間離れなかったこと。

父のことだけでなく、母のこと、兄弟のこと、いろんなことが頭をぐるぐる巡ってること。

悲しさが追いついて来ないこと。

子供達と過ごす時間が精一杯なこと。

少しゆっくりしようと思うこと。

 

取り留めなく、ただ浮かんでくる言葉を発してる私を、ただ黙って聴いてくれた友人たち。

そして、最近の私を見て頑張りすぎではないかと心配してたこと、やっと話してくれて嬉しかったと、ただ聴いてくれました。

 

こんな風に、自分を話せる友達ができたこと、そしてこんな風に見守ってくれる友達が居ること。

なんか、それだけで私の日常は価値があるなぁとしみじみ思いました。

 

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その夜、初めて父の夢を見ました。

 

どっかの店でご飯食べる約束してて、いつも約束には必ず早めに行く父が案の定早く店に来てて、

いつも通り私たちは父を待たせてて。

店に入ったら、父が待ちくたびれて寝てたって夢。

 

あんまりあるある過ぎて、リアルでね。起きて思いました。

 

死んだけど、死んでないんやなぁ。

 

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夫と友達に吐き出した翌日、

熱が出ました。咳が出ました。鼻水が出ました。月の物が出ました。

 

久しぶりの高熱にヒーヒーしたけど、身体って正直やなぁと惚れ惚れしました。

 

結果、ピノ子もコボちゃんも熱が出て、調べたらインフルエンザやったんですけど、大人になって初めてのインフルエンザが、今回かぁ。出さなあかんもんいっぱいあったもんなぁ。

とか、脳みそ沸騰する位の熱の中、思いました。

 

と同時に、思った通り、ゆっくり過ごす時になりました。

 

ひとしきり熱が出た後、

それまでぐるぐる考えてた悲観的な思いや、考えてもどうしようもないこと、そして「私がやらなくちゃ」という思考の癖がグンと抜けて、楽になってました。

やっぱり身体って、良きに計らってくれるなぁ。

 

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私には夫と子供達との日々があって。

 

父が居た生活は日常では無かったけど、父はいつも居たわけで。

まだ実感わかないけど、たまに「死んだんやなぁ」と思う。

 

今のところはそれでいい。

今に至るまでにもいろいろ逡巡したように、これからもいろいろ思うんでしょうね、きっと。

 

それをそのままで受け容れていく。

受け容れられないこともあっていい。受け容れられないんだと理解する。

 

毎日生きてるから、風邪ひいたり、喧嘩したり、怒ったり泣いたり悲しんだり、笑ったり、楽しかったり、とにかくいろんなことがあって、日々なのや。

 

何もないことに、そんなに慎重にならなくていいやん。

 

いちばん大切なことは 特別なことではなく
ありふれた日々の中で 君を
今の気持ちのまゝで 見つめていること

 

 

肝っ玉オカン道は続く